執着

 

人からの評価が気になって仕方がない

 

そのくせ元々すっとぼけているもんだから

 

人から笑われる毎に「今に見てろよ、このおたんこなす」

 

なんて思って生きてきた

 

でも出来ることなら、そんな執着から心を自由に解き放てないかと思っている

 

人から何を言われようとも木偶の如き顔をして

 

「お主の言われる通りじゃ、かたじけない」と応じる

 

そんな悠然とした感じになれないかと願ってきた

 

 

異国で暮らしているせいか、ただ気づいてないだけか、最近笑われる機会が減った気がして、その見苦しい気持ちがさほど出てない事に気づき

 

「我ついに悟りの境地に至れり」

 

なんて歓喜の雄叫びを上げようとしていたら

 

先日見事に旧知の卑しい自分と再会を果たす機会があった

 

自尊の念が脅かされたとしてかなりプンプンしてしまったのである

 

そしてすっかり消沈してしまった

 

この捉われからまるで離れられそうにない

 

きっと爺さんになってもきっちり激昂して人をナス呼ばわりしているに違いない

 

 

もうこうなったら悟りは諦め、人の評価に捉われる己と一生向き合っていくしかないのだろう

 

むしろより盛んに執着して前へ進む弾みとしてトコトン利用してやろうかと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

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Facebookで友達申請しないのは失礼なのか

 

(くだらなさに意義を見出しており、ここにはそれ以外のことが一切書かれていない事を最初にお断りしておきます。万が一最後まで読み終えられた場合、込み上げてくる「時間を返せ」という怒りには対応しかねますので予めご了承賜りますようお願い申し上げます)

 

 

 

 

 

SNSとの付き合い方は人それぞれだろうが

 

 

僕の最近のスタンスとして自ら友達申請を行うことはあまりない

 

 

なぜなら

 

ワザワザこちらからしなくてもみんな申請して来てくれるからだ

 

 

という訳ではまるでない

 

 

「友達申請はメッセージを添えて」

 

そんなコメントをプロフィールに乗せられるような状況になる事が僕の夢でもある

  

 

なんてことはさておき

 

 

「ねえ、この人知り合いかもよ?」なんてFacebookが提示してくる度に

  

「あっ、お世話になった〇〇先生」「あぁ、あこがれの□□先輩」「今どうしてるんだろう?、なんて気になる△△君や☆☆さん」

  

なんて反応してしまう

 

  

「できることなら繋がりたい」

 

繋がって挨拶したり、近況を確かめたい、そう思うのである

 

 

そう思うのであるが、いざ『友達になる』の上に指を近づけると、途端、体に異変が起こってくる

 

 

近づけたその指がブルブルと震えだし、その震えは瞬く間に全身へと広がり、玉のような汗が吹き出して、もう卒倒寸前となるのである

 

「SNSは適度な距離をもって気楽に楽しみましょう」どころの騒ぎではない

 

もう壮絶な営みなのだ

 

 

 

 

では何故こんな反応が起こってしまうのか

 

それは恐怖である

 

拒絶に対するとてつもない恐怖である

 

 

友達申請しても認可が降りない

 

ということが今まで立て続けにおこってきた

 

 

それが面識のない人なら仕方ないだろうが、それなりに関わりのあった人からなのだ

 

 

 

 

「ねぇ、きっと今はもう見てなくて気付いてないだけだから大丈夫だよ」

 

 

そんな優しい慰めの言葉をかけてもらっても、ついあれこれ考えてしまう

 

 

「あれ、俺何かしたんだろうか」「えっ、もしかして嫌われてたの」

 

 

そう考えだすともうダメである

 

夜は眠れず食事は喉を下らず、しまいに目は虚ろとなり、髭と頭髪は乱れに乱れ、落ち武者の呪縛霊さながらの様を呈するに至る

 

 

そんな経験を重ねると、もう怖くて気軽に申請などできなくなってしまう

 

 

 

 

 

そんな訳で

 

「あんなにお世話になったのにちょっと気まずいなぁ」「スカしやがって、きっとそう思われてないかなぁ」

 

なんて思いながら「知り合いかも」を眺めているけど、自らアプローチする勇気に著しく欠ける昨今である

 

 

 

 

 

実際オメーのことなんか誰も気にしてないんだわ、にも関わらずそんな事を考えてしまう自意識過剰さ、人間の小ささを披露して一体なんの得があるのかと我ながら思ってしまうが、こんな変なことばかりを投稿している事自体がそもそも友達になってもらえない大きな要因の一つでもあることはちゃんと自覚しております

 

 

 

 

 

文章の書き方

 

文章を書くなんて簡単さ

 

まずね、自分の中の深い井戸に降りていくんだ

 

一番下までたどり着いたらそこで身を潜めてじっと待つんだよ

 

するとね、言葉がまるで湧き水のように自然に溢れ出してくるんだ

 

それをただ拾い集めていくだけの単純な作業さ

 

 

 

 

 

そう1ミリたりとも共感できそうにない事を仰られる方も世の中にはいるかもしれない

 

そんな才を持ち合わせてないボクが自分なりに大切だろうと思っていることは

 

 

何も足さない、何も引かない

 

 

どこかで聞いたことのあるコピーみたいだけど、一言で言えばこれが書く時の基本でありゴールではないかと考えている

 

 

必要なものを入れ、余計なものを除く

 

聞けば当たり前な気がするけど常にこの事を意識することは大切だと思う

 

 

 

これってさぁ、言わば「笑い」と同じなんだよね

 

 

(「は~?、お前に笑いの何がわかっとんねん!」と、すかさずツッこみが入りそうだけど、それを叱咤激励として前に進ませていただきたく存じます)

 

 

 

芸人あるいは一般の人のいわゆる小話や笑い話みたいなのを聞いて感じることがあるのだが

 

その中で「なんだかなぁ~」と思う場合の一つに話がくどいことがある

 

「そこ、そんなに説明する必要あります?」

 

余剰が多いと話がだれて聞く方の集中力が持たなくなってしまう

 

 

そしてもう一つ有りがちなのが、ウケているのは話している本人だけという状況

 

全員全力で置いてけぼりなのである

 

 

これが起きる原因の一つが情報不足だ

 

本人の中では登場人物や場面の詳細な情報が繋がっているから面白いと思えるのだが、全く知らない聞く側にとって最低必要な情報が不足すると、もう付いていけず落ちの部分でキョトンとするしかないのだ

 

えっ、今のところ落ちてたんすか?

もうバリアフリーですかってくらいスムーズだったので全然気付きませんでした

 

芸人が話をする時、笑いに繋げるために必ず登場人物の人柄が伝わる短いエピソードを挟んで聞く側にイメージを持たせるのと同じように、抜けるとまずい情報があるのだ

 

 

つまり話の理想は

 

コンパクトだけど漏れがない

 

 

 

 

文章も全くこれと同じだろう

 

 

説明が足りなくて理解してもらえない所はないか、逆に回りくどい部分はないか

 

文が一通り書けたらこれを意識して一生懸命見直す作業が大切だと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

一般的に文章を書くのは人に何かを伝えたいからなので、上のことに留意して書き、読む人が理解できればその目標は達成される事になる

 

 

ただ、そもそも人に読んでもらえなかったらその努力も虚しいものと化してしまう

 

では、どうすれば人に読んでもらえるか

 

次にこの事を考える事が大事になる

 

 

 

 

 

1、価値

 

悲しいことだが読む人にとって価値を感じてもらえなかったら読んでもらえない。役立つ、学びになる、感動できる、笑える、ほっこりする、でも何でもいいだろうが、とにかく読む人の時間と引き換えに何らかの価値を提供する事を常に追求する必要がある

 

 

 

 

2、成功談よりも失敗談を

 

ボクがこのブログを書く根本の動機は承認欲求を満たしたいからなので、本当はある事ない事を盛りに盛って自慢したいのである

 

でも人はそんな物これっぽちも聞かされたくないし、他人の何かが上手くいった話なんて大して興味がないのが人情だ

 

それが証拠に、のび太でなく出木杉くんが主人公で最終的にしずかちゃんと結ばれる漫画なんて一体誰が読むだろうか

いざ自分がしずかちゃんだったらガッツリ出木杉くんを選ぶくせに、第三者の立場になった途端、のび太に共感し応援してしまう。そんなもんである

 

それに言っときますけどねぇ、出木杉くんが主役だったらドラえもんの出る幕なんて微塵もありませんからね!

 

 

ボクは一体何の話をしているのだろうか

 

まあとにかく、人にとっては上手くいった話や自慢話よりも失敗談や人間らしいエピソードの方が耳に心地がいいのだ

 

 

自慢も他人への刺激に成りうるので必ずしも悪いことではないだろうけど、少しでも人の共感を得たいのであれば

 

無理して自分を落としめる必要はないだろうけど、出来る限り等身大で背伸びしない事

 

また油断するとその自慢したい気持ちが文章の端々に現れてしまう事

 

そういった事に留意することは大切な気がする

 

もちろん上手くいった経験も人の参考になるのでそれを共有する事は意義があるだろうけど、鼻についた瞬間去ってしまう人もいるので注意が必要だ

 

 

 

 

3、笑いを入れる

 

ボクがこんなにスベり倒して傷だらけになりながらも必死に笑いを入れようとしているのには三つの理由がある

 

 

一、人は笑ってしまうとその人を嫌いになりづらくなる、という

 

人に嫌われるのが死ぬほど怖いんですわ

 

二、基本偉そう

 

どんな趣旨の文章を書くかにもよるが、例えばこんな「文章の書き方」なんてものをどこの馬の骨かも分からないズブのど素人が人様に伝えようとするなんて、勘違いの極み、もうほんと偉そうなのだ。人にそう思われるのを少しでも少なくするために笑いを入れて誤魔化そうとしている

 

三、引き止める

 

現代人は忙しい。文を読み始めても途中でくだらんと思った瞬間人は撤退してしまう。笑いを所々に入れる事でそれを繫ぎ止められる可能性がある。もちろんその笑いのつもりが全く笑えないものだったら人の撤退をさらに加速させてしまうので諸刃の剣でもあるのだが

 

 

 

外国に来て増々強く感じるけどユーモアって生きてく上でこんなに大切なのに誰も教えてくれない

 

どうすればそのセンスを磨けるかは一生の課題だろうけど、メタ認知と人の顔色を伺う能力、これがきっと大切なんだろうなぁ、なんて分かったような事を言って深追いしないことにする

 

 

 

4、人の批判

 

人を批判しても全然オッケーだし、それ自体が目的の文章もあるだろう

 

ただ個人的には極力やめておこうと考えている。いい人と思われたいのもあるけど基本誰も楽しくないからである

 

人を批判している文章を読むとその書いている人自体の価値を下げているように感じてしまう

 

文句があるなら直接言った方がいい気がする

 

 

 

 

5、嘘を言わない

 

表現ってほんと難しいと感じる

 

たとえば

 

「この薬は効きます」

 

下手をするとこの表現は嘘になってしまう

 

より正確に言えば

 

「現在のところ科学的に統計が取られた結果この薬を服薬した人の何パーセントの割合で効果が出ると言われています」

 

その薬が効くかは確率の問題であって実際その人に有効かどうかは分からないのだ

 

 

全てに一々ここまで書かないだろうけど、嘘は簡単に言えてしまう事に自覚的になる必要がある

 

 

他のたとえを出せば

 

「人は◯◯すべきである」

 

という文があるが、これを直せば

 

「人は◯◯をした方が良いだろうと私は信じています」

 

というのがより正しくなるだろう

 

正しいといわれる価値観なんて時代や場所でコロコロ変わるからだ

 

 

やり過ぎると説得力が弱くなるので難しい所であるが、事実か自分が信じている事かが認識できた上で表現した方が人の受け入れられ方が変わってくる気がする

 

上から目線で本当かどうか分からない事を言われると人は反発しやすくなる

 

 

 

客に食べ方の注文をつけてくる頑固オヤジのラーメン屋なんかに行って

 

「まずスープから飲め!」

 

なんて言われようものなら

 

「やかましいわっ、このクソ親父がっ!

どちらかと言えば最初にスープからお嗜みになられた方がより味を楽しめると私個人は信じております、って言えやっ!」

 

なんて言ってカウンターに金を叩きつけ

 

「二度と来るかっ!」

 

と吐き捨てて店を出て行ってしまう

 

 

そんな勇気のかけらもないボクは借りてきた猫のように従順に従い

 

「ほんとだ、このスープすげ~深みがありますね」

 

なんて言ってしまうのである

 

 

 

で、何の話でしたっけ

 

 

まあつまりは、表現は常に事実か思い込みかを区別し、出来る限り嘘を言わないように気をつけた方が良いのではないかと私自身は信じております

 

 

 

 

 

 

6、たとえる

 

見よう見まねでたとえを入れるよう意識しているけどボクには何故それが大切かが分かっていない

 

作家やうまい芸人のツッコミを見ているとやっぱりたとえが鮮やかなのだ

 

普通に考えれば、具体例を提示される事で人は腑に落ちやすくなる

 

まあそれだけの事なのかもしれないが、やはり文章にたとえを入れる事は大切な気がする

 

 

 

 

 

7、万人を想定する

 

蓋を開けてみたら誰も読んでいなかった

 

なんて事もあるかもしれないけど、それでも書く以上は誰かが読むことを期待して書くことだろう

 

そして不特定多数に向けて書くのであれば、一応あらゆる人を想定した方がいいと思う

 

何を書こうがどこかで傷つく人や不快に感じる人がいる可能性がどうしたって出てくる

 

仕事、パートナー、子供、健康、趣味、他もろもろ何の事であれ

 

「この表現によって嫌な気分になる人っているだろうか」

 

万人に悪く思われないようにする事は不可能だけど、常にそれを意識して悪い事はないだろう

 

それと同時に当たり前のことだろうけど

 

人がどう解釈するかは人の勝手

 

文句を言われようが誤解されようが全て折り込みずみですよ、という心構えは大切な気がする

 

 

 

 

 

 

8、ほか諸々

 

・一文はできるだけ短くする

 

・書いたら声に出して読み心地よいリズムに修正する

 

・最初に掴みを入れる事を意識する

 

・興味を引く題をつける

 

・アイドルの写真を入れる、などの姑息な手を使って人を呼び込む

 

・具体的に書く

 

・自分の体験を書く

 

・自分の言葉で書く

 

・漢字とかなのバランスを見る

 

・平易になり過ぎてもあれだが、人が理解しづらい言葉を多用し過ぎない

 

・沢山読み、沢山書く

 

 

 

 

 

9、恥は一時

 

文章が上手かろうが上手くなかろうが、人が読んでくれようが読んでくれまいが

そんな事は結局あまり大した事ではない気がする

 

言いたいことがあれば表現し、やりたい事があればやる

 

だって、うかうかしているとあっと言う間に人生が終わってしまいそうな気がするんだもの

 

どんなに恥をかこうがそれ程長くは続かない

 

自分もそのうちいなくなるし、それを知っている人たちもいつかはいなくなる

 

だから大丈夫である

 

 

 

10、最後に

 

SNS界隈も少し落ち着いたよそいきを見せていますが、そこで表現する時に自分なりに意識している事を書いてみました

 

ただ最後にこんな事を言ったらなんですが、あまり人の顔色ばかり伺っていると疲れるし、一生懸命空気ばかり読もうとしてたら時代を革新するイノベーションなんて起こりにくいですからね

 

「じゃあ、どないしたらええねん」というツッこみにお答えする形で本文を終わりにしたいと思います

 

「そんなこと知らんがな」

 

 

 

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